櫻井翔さんと父・櫻井俊さんの関係には、派手さはありませんが、静かでやわらかな温もりがあります。
意見がぶつかる時期もあったけれど、気づけばいつもお互いを思いやっている。そんな素朴であたたかい親子の関係が、二人の歩みから伝わってきます。
櫻井翔さんが幼い頃に受けてきた教育、そして多忙な学生生活のなかで必死に努力してきた姿は、家庭の中で育まれた価値観が支えになっていました。父・櫻井俊さんもまた、行政の世界で長年働きながら、家族の前では穏やかな父親として過ごし、その姿勢は翔さんの心にも静かに影響を与えていたのでしょう。
芸能界に進む決意をしたときにはぶつかり合ったこともありましたが、それは息子の未来を思うからこそ生まれた大切な時間でした。やがて櫻井翔さんの覚悟と誠実さを見て、家族はその道を信じて応援するようになり、今日まで見守り続けています。
今では、櫻井翔さんの活躍を父・櫻井俊さんが控えめに喜び、櫻井翔さんもまた父の生き方に尊敬の気持ちを抱いています。言葉にしなくても伝わる家族のあたたかさ。ふたりが選んできた距離感は、親子の優しい信頼の形そのものです。
本記事では、その温かい関係を育んできた背景やエピソードを、丁寧に追っていきます。
この記事を読んでわかること
- 生い立ちと家庭環境
- 父・櫻井俊さんのキャリア
- 母の教育方針について
- 櫻井翔さんの幼少期と学業・芸能活動の両立について
- 退官後の父、親子関係
生い立ちと家系背景 ― 櫻井翔が育った家庭環境
櫻井翔さんは、由緒ある家系と両親の温かいサポートのもとで育ちました。
父・櫻井俊さんは行政や企業で重責を担い、仕事に真摯に向き合う姿を家庭でも自然に見せていた一方、母親は教育熱心でありながらも、子どもたちの個性や挑戦心を大切に支えてきました。
こうした家庭の中で、櫻井翔さんは勉学や習い事、スポーツや芸術など、さまざまな経験を楽しみながら積み重ねていったのです。
ピアノや水泳、サッカー、油絵、剣道などの経験は、挑戦する力や集中力、努力を続ける力を育む大切な時間になったことは間違いありません。
こうして櫻井翔さんは、厳しさと愛情が自然に共存する家庭環境の中で、努力する姿勢や挑戦する勇気を身につけました。家族から受け継いだ価値観や日々の経験は、学びや技能だけでなく、今の多才な活躍の土台となっています。家庭の温かさと両親の支えがあったからこそ、櫻井翔さんは俳優や歌手、キャスターとして多方面で活躍できる人物に育ったのです。
父・櫻井俊の出自と家族のルーツ
櫻井翔さんの父、櫻井俊さんは群馬県前橋市の出身です。
東京大学法学部を卒業後、1977年に旧郵政省に入省しました。総務事務次官や株式会社電通グループの代表取締役副社長を歴任するなど、行政や企業の重要な役職を長年務めてきました。さらにマルチメディア振興センターの理事としても活躍し、情報通信分野の発展にも貢献してきた人物です。
櫻井俊さんの父、櫻井三男さんは上毛新聞の元専務で、新聞業界に長く携わってきました。仕事に真面目に取り組む姿勢と地域社会への貢献は評価が高く、同時に家庭を大切にする温かい父親でもあったそうです。そうした環境の中で、櫻井俊さんは責任感や誠実さを自然に身につけて育ったのはないでしょうか。
一方、櫻井俊さんの母、つまり櫻井翔さんの祖母は一般の方ですが、家族を支える存在として家庭を温かく守ってきたことが想像されます。仕事に打ち込む父と家庭を支える母のもとで育った経験は、俊さんの人格形成に大きな影響を与えました。
こうした家庭環境のなかで培われた価値観は、後に櫻井翔さんにも受け継がれていると考えられます。家族を大切にしながら、与えられた役割に真摯に向き合う姿勢こそ、櫻井家に脈々と流れるルーツなのです。
母親と家庭の教育スタイル/翔の幼少期
櫻井翔さんの母親も群馬県出身です。
地元の名門女子高校を卒業後、都内の女子大へ進学しました。母方の家族は繊維業で財を成した一族、父方も慶應義塾大学出身のエリートと、教育と品格を重んじる家庭で育ったのです。大学卒業後は出身大学で職員として働き、結婚後も仕事を続けながら、子どもたちの成長を温かく支えてきました。
そんな両親のもとで育った櫻井翔さんの幼少期は、多彩な習い事に彩られていました。本人も
「確かに習い事いっぱいやらされて、ピアノ、水泳、サッカー、油絵・・・」
引用元:マイナビニュース
と振り返っており、この豊富な経験が他のアイドルとは一線を画す多才さにつながったことがうかがえます。
さらに櫻井翔さんは幼いころから強い「1番になりたい」という気持ちを持っていたそうです。
なんと5歳のときにはコンテストで優勝するために、自分でサンオイルを塗りまくったと語っています。「普通の親って止めるじゃん、5歳だよ?」という年齢にもかかわらず、母親は一生懸命一緒に塗ってくれたそうです。そのおかげで、見事ぶっちぎりで1位を獲得したと振り返っています。こうした経験からも、家庭の中で努力や挑戦を支えてくれる親の存在の大きさが伝わってきます。
母親の教育スタイルは、単に勉強や技術を伸ばすだけでなく、子どもがいろいろなことに挑戦する力や楽しむ心を育むことを重視していました。家庭では厳しさと愛情が同居し、櫻井翔さんはその中で努力や責任感を自然に学び、のちの多方面での活躍の土台を築いたのです。
ゆい習い事いっぱいやったけど、どれが役に立ったのかな?
たくみ「なんも実にもなってないですよ」と本人談。でも、あの習い事や挑戦が今の櫻井翔さんの土台になってんじゃないかな。
父・櫻井俊のキャリア ― 旧郵政省から総務省トップへ
【更新】嵐・櫻井翔の父・桜井元事務次官が電通取締役に https://t.co/EbOvqOYgy3 pic.twitter.com/6n79HBabAr
— ˗ˋˏ 略してコグマ|ファスト飯探究家 ˎˊ˗ (@kogure) February 18, 2019
櫻井俊さんは、東京大学を卒業後、旧郵政省に入省し、長年にわたり日本の通信や電波の仕事に携わってきました。新しい制度を作ったり、行政の仕組みを整えたりと、少しずつ責任ある仕事を任されるようになり、着実にキャリアを積み重ねてきました。
総務省の事務次官という大きな役職に就いたのも、こうした長年の努力と経験があったからです。事務次官は総務大臣を助けながら、全職員の仕事をまとめたり、地方の視察や知事との会合、ほかの省庁の次官との会議にも出席したりする、とても重要な仕事を担います。
長い官僚人生を通じて、人柄と実績が認められたからこそ、信頼され、総務省のトップクラスの役職を任されるに至ったのだと思います。
東大卒→旧郵政省入省、官僚としての歩み
桜井俊さんは、東京大学法学部を卒業したあと、1977年に旧郵政省へ入省し、官僚としての道を歩み始めました。
若い頃から通信や電波といった分野を担当し、日本の情報通信を支える仕事に長く携わってきました。担当する業務が変わるたびに、新しい制度づくりや行政の仕組みに関わり、少しずつ責任ある立場へと進んでいきます。
省庁再編で総務省が生まれたあともその活躍は続き、通信行政を統括する局長や国際戦略を担うポストなど、要となる役職を次々と務めました。
穏やかな語り口ながら周囲からの信頼も厚く、2015年には総務省の事務次官に就任し日本のICT政策を支える中心人物として、長い官僚人生を歩んできました。
総務省事務次官就任と、当時の話題性
2015年7月、桜井俊さんは総務省の事務次官に就任しました。
旧郵政省以来、通信・電波行政に長く携わってきた実績が高く評価され、「情報通信行政を牽引するにふさわしい人物」と報じられています。さらに、事務次官の役割については
「事務次官は総務大臣を補佐しながら、全職員を部下として各部局の業務を監督します。また、地方視察もしますし、知事・首長との会合や、各府省の次官が集まる連絡会議への出席も、大事な仕事です」
引用元:livedoor News
と説明されており、省内外の調整を担う要職であることがわかります。
また桜井俊さんの就任は、行政の世界にとどまらず広く話題となりました。
それは、彼が人気アイドルグループ「嵐」の櫻井翔さんの父であるという事実が大きく取り上げられたためです。官僚人事と芸能ニュースが交差したことで、「アイドルの父が総務省トップに」という見出しが並び、通常の官僚昇格では見られないほどの注目度となりました。
その結果、桜井俊さんの事務次官就任は、官僚としての豊富な経験と社会的話題性が重なった、非常に印象的な人事として記憶されています。
ゆい櫻井俊さんは職歴からみても、真面目な方なのかな?
たくみ省内ではいたって気さくな方で、カラオケで嵐の曲を歌ったりするみたいだよ。
櫻井翔の歩んだ道 ― 厳格な家庭で育った少年が芸能界へ
櫻井翔さんの歩いてきた道を振り返ると、厳しい家庭で育ちながらも、その中で身につけたまじめさや責任感が、彼の人生をずっと支えてきたことがよくわかります。幼いころから続けてきた習い事や学校生活、そして家族が大切にしてきた「学業を優先する」という考え方は、芸能界という世界に飛び込んだあとも、櫻井さんの土台としてしっかりと根づいていました。
芸能活動が始まったばかりの頃は、家族だけでなく周りの大人たちにも心配され、決して順調とはいえない状況でした。それでも櫻井翔さんは、学業をきちんと続けることで信頼を積み重ね、自分の選んだ道を歩く覚悟を示していきます。
朝早く起きて勉強したり、試験前には仕事を休んだりと、決して楽ではない毎日だったにもかかわらず、その姿勢を崩すことはありませんでした。
結果として、厳格さと温かさの両方を受け取りながら育った少年は、自分自身をしっかりと持ちながら芸能の道を歩み続け、大きな信頼を集める存在へと成長しました。誠実に積み重ねてきたその道のりこそ、櫻井翔さんが今も多くの人に愛される理由なのだと感じさせられます。
幼いころからの教育と“努力する”習慣
櫻井翔さんは、1988年4月就学に合わせて家族で東京都港区へ転居し、慶應義塾幼稚舎へ入学しました。そこから普通部、高等学校、さらに慶應義塾大学経済学部へと進み、幼稚舎から大学まで16年間を一度も留年することなく卒業しました。
子どもの頃の櫻井翔さんにとって、学校は生活の中心そのものだったといいます。自由時間はほとんど無いほどに多忙で、当時は8つの習い事を掛け持ちしていたといいます。小学校へはバスを乗り継いで通い、共働きの両親のもと、放課後は学童保育で過ごす日々でした。そんな環境のなかでも、与えられた時間を大切にしながら、一つひとつの経験を積み重ねていきました。
そして、中学在学中には、芸能活動がスタートします。この新しい挑戦には、必ずしも周囲の理解ばかりがあったわけではありません。
芸能活動をするということは、当然、一部の先生や保護者の方々から多少なりとも良く思われていないところがあったと思うんです。その中で、どうしたら芸能活動を続けられるか。それは学生の本分である学業を疎かにしないことだと思いました。
引用元:三田評論ONLINE
と本人も語っています。この言葉の通り、彼は学業を疎かにせず、学生としての責任を果たすことを自らに課してきました。
仕事と勉強の両立は容易ではなかったはずですが、幼いころから身についていた努力の習慣が、その挑戦を支えていたのでしょう。コツコツと積み重ねる姿勢が、現在の誠実で芯の通った人柄につながっていることは間違いありません。
芸能活動への反対と説得、“学業優先”の条件付きデビュー
中学2年生のとき、櫻井翔さんは自らジャニーズ事務所へ履歴書を送り、1995年10月22日にジャニーズJr.としての活動を始めました。
しかし、その道のりは決して順風満帆ではありませんでした。オーディション通知が届いた際、父親は「何だこれ、聞いてないぞ」「行くな!」と大激怒したそうです。それでも櫻井さんは強い思いを胸に、反対を押し切ってオーディションへ向かい、見事に合格します。
ところが家族の反対はその後もしばらく続き、芸能界という不安定な世界に飛び込む息子を思って、親も祖父母も心配を隠せなかったといいます。「祖父母の家に行けば“いつ辞めるんだ”と言われていた」と櫻井翔さん自身も振り返っています。
それでも最終的に家族が活動を認めた背景には、櫻井翔さんが見せた熱意と誠実さがありました。芸能関係者によれば、家族が出した条件は “学業を絶対におろそかにしないこと”。この約束のもと、櫻井翔さんはJr.としての活動を続けていくことになります。
実際に櫻井翔さんは、高校時代も「試験の1ヶ月前には仕事を休む」という父親の方針のもと、無遅刻無欠席で学業を最優先しました。そのためステージの立ち位置が後列になったり、仕事に呼ばれなくなったりすることもあったそうです。
それでも彼は決して学びを手放しませんでした。睡眠時間はわずか3時間。毎朝4時に起きて前日の授業の復習をし、楽屋でも参考書を開いて勉強していたというエピソードが残っています。
この姿勢は大学進学時にも続き、
大学に入る時も、「もし嵐を続けるんだったら、留年したら学費は自分で払え」と親には言われました。それは、留年したら芸能活動させてもらえない、ということだなと思いました(笑)。
引用元:三田評論ONLINE
と櫻井翔さんは語っています。
家族の厳しくも温かい思いと、自らの意思。それらが折り重なって、“学業優先”という揺るがない芯が、彼の中に育っていったのです。
ゆいとても多忙だったはずなのに、どんな思いで勉強に向き合っていたの?
たくみ半分は意地で、もう半分は友達のおかげ、ノートを貸してくれたり支えてくれる仲間に恵まれて、本当に助けられたと語っていたよ。
現在の親子関係 ― お互いを尊重し合う“距離感の良い関係”
櫻井翔さんと父・櫻井俊さんの関係は、お互いを尊重しながら築かれた自然な距離感が魅力です。
公的な立場を退いた櫻井俊さんは、民間や地域活動に落ち着いて取り組みながら、家庭では変わらず家族を大切にしています。正月には家族がそろっておせちを囲んだり、嵐へのお中元やお歳暮を送ったりと、日々の小さな思いやりが二人の絆を支えています。
櫻井翔さんがデビューした頃、父はコンサートに来ることはありませんでしたが、2006年のソロ公演をきっかけに足を運ぶようになり、以来、そっと見守る存在になっています。派手に表には出さなくても、父の支えが櫻井翔さんの心の支えになっているのが感じられます。
また、櫻井俊さんが都知事選出馬を固辞した背景には「家族に迷惑をかけたくない」という思いやりがあり、公私ともに家族を大切にする姿勢がうかがえます。こうして二人は、互いを思いやりながら距離感を大切にした関係を築き、櫻井翔さんの安心感や努力を陰から支え続けているのです。
退官後の父の活動と、公的立場から離れた生活
櫻井翔さんの父桜井俊さんは、2016年6月に総務省を退官しました。
同年、東京都知事・舛添要一の政治資金問題で次期都知事候補として名前が取り上げられたこともありましたが、総務省前で「情報通信行政をやってきただけの人間ですので、とてもそのような役を果たせる器ではない」と述べ、出馬を否定しました。
退官後は三井住友信託銀行の顧問に就任し、民間での活動を始めています。
また、退官後も情報通信分野での経験を生かし、2017年には全国地域情報化推進協会の理事長に就任しました。同年、地域IoT官民ネットの設立発起人として共同代表にも就任し、地域のIT化や官民連携の推進に取り組んでいます。
公的な立場から離れた生活を送りながらも、落ち着いた中で積極的に地域社会や産業界の発展に貢献する姿勢を続けています。
成功した翔を見守る父、語られない親子エピソード
櫻井翔さんの家族は仲が良く、互いを思いやる温かい関係が感じられます。
正月には自宅に家族が集まり、おせちをしっかり用意するなど、伝統的な家庭の風景が守られているそうです。また、櫻井家ではお中元やお歳暮をジャニーズ事務所に送る習慣があり、自宅には家族の写真があふれていると言われています。
櫻井翔さんが1999年に嵐としてデビューした頃、父・櫻井俊さんは一度もコンサートに訪れませんでした。しかし、2006年のソロコンサートでは、櫻井翔さんが父を誘ったところ、「じゃあ、行ってみるか」と言って観に来てくれたそうです。この一度の経験をきっかけに、父はその後、嵐のコンサートにも足を運ぶようになりました。
公にはあまり語られないエピソードですが、翔さんにとって父の存在はいつも温かく見守る支えであり、家族の静かな絆が彼の活躍を陰ながら支えていることが伝わります。成功した翔の姿を見守る父の気持ちは、言葉にせずとも確かに存在しているのです。
ゆい都知事選への出馬を固辞したのはなんでだろう?
たくみ「家族に迷惑をかけたくない」という理由を挙げていたみたいだよ。
櫻井翔のプロフィール・SNS
- 名前:櫻井翔
- 生年月日:1982年1月25日
- 出身地:群馬県
- 国籍:日本
- 所属:STARTO ENTERTAINMENTとグループエージェント契約
- 家族構成:父、母、妹、弟

